1月11日菊川教会説教題「天国行の無料チケット」
福音書日課マタイ3:13-17
特別の祈り
天の父なる神様、あなたはヨルダン川でイエス様に洗礼を授け、聖霊によって、御子であることを明らかにされました。どうか、洗礼によって、わたしたちをもあなたの御子とし、永遠の命を受け継ぐ者としてください。世々限りなく治められる、父と子と聖霊の名によってお祈りいたします。アーメン
賛美歌21
278番(1節2節)、280番(1節4節)、451番(1節2節)、81番、88番
1月6日がキリスト教の暦では、顕現日です。前にも話したと思いますが、元来は、1月6日がクリスマスでした。ところがキリスト教が中近東にあるイスラエルから北の方のヨーロッパに移ってから、当時の冬至のお祭りと一緒にして12月24日がイブ、25日がクリスマスにしたわけです。冬至を過ぎると、だんだん明るくなってくるので、イエス様の誕生にふさわしいと考えたのでしょうね。一方で、1月6日の方は顕現という名前が付けられまして、これは、イエス様が神の子である救い主としての性質をあらわしたという意味にしました。そして、今日の日曜日は、顕現日の後の最初の日曜日という、キリスト教では大切な日です。そして、その日の聖書日課は2千年間同じように守られてきています。それは、イエス様の洗礼の出来事の記事です。
キリスト教の神学を知っている人なら、洗礼とは、自分の罪を自覚した人が受ける者だと知っているはずです。洗礼とは、悔い改めの洗礼なのです。ところが、不思議なことに、神の子として生まれ、悔い改める罪を持たないイエス様が、悔い改めの洗礼をどうして受けたのかということです。これは、わたしにもわかりません。でも、聖書には、その答えが隠されています。その謎解きの個所は、旧約聖書のイザヤ書です。イザヤ書53章に救い主の預言が書かれています。そして、53章11節にはこう書いてあります。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」これは、当時の宗教的指導者の態度とは違いますね。神殿の神官や、聖書の学者などは、人々の悪い行いを指摘して満足していました。その人が、癒されることはあなり考えていなかったと思います。現代でも、そういうことはありますね。例えば、学校の先生や家庭の両親が、子供の悪い点を指摘することは難しくないです。しかし、イザヤ書の預言のように、相手の受けるべき罰を自分が受けるというのは、なかなか出来ることではありません。例えば、自分の子供が犯罪を犯してしまい、死刑判決を受けたとします。その時に、親が、どうか子供を殺さないで、私を代わりに処刑してくださいと申し出るのに似ています。ここで、皆さんにお尋ねしたい。親は、どうして、そのような気持ちになるのでしょうか。義務でしょうか。面子でしょうか。責任感でしょうか。違います。親が、子供の罪の身代わりとなって犠牲になるというのは、愛があるからです。愛のない親は、子供の犯した罪を嘆くだけです。愛があるから身代わりになって苦しむことを避けないのです。
若いころは、悪い生徒を叱るだけの先生のようだった、聖書の学者だったパウロは、悔い改めてクリスチャンになりました。そして、最後はローマ軍によって処刑されました。しかし、彼は、イエス・キリストに示された神の愛を知りました。そして、愛について、こんな風に書いています。第一コリント13章です。「私はあなたがたに最高の道を教えます。人間は愛がなければ無に等しい。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」また、ヨハネの第一の手紙4章にはこう書いてあります。「愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」イエス様が、洗礼を受けたのは、神の愛を示すためだったのですね。ある現代の心理学者が愛についてこのように書いています。「もし、この世のすべてを所有していたとしても、愛がなければ、なにもないに等しい。また、もし、この世の物を何も持っていなくても、愛があるならば、すべてを持っているに等しい。」
愛の人、神の子イエス・キリストを信じる者には、この神の愛が与えられます。そして、そのことが顕現日の意味であり、救いの道が明らかにされるということです。
ただ、人間は愛の神を知らないという罪の中に生まれています。全て人間に共通していることは、自尊心が低く、常に人の顔色を伺って生きている点です。ある程度成長するまで自分の育った環境が特殊だったことや、自分が本当の愛を知らずに育ったことに気付かずに生きています。それを克服するためには、まずは自分自身を客観的に見つめ、自分には愛がないことを発見することが大切です。これは救いの自覚の第一歩です。過去の経験が苦しかったことを、親の責任や、環境の責任にせず、自分の中に愛がなかったこと理解することで、新しい出発点となります。
ある心理学者は、罪から解放されていない人生を次のように説明しています。第一に、その人は何が正常かを自分自身で推測します。真実の愛を経験していないため、「これでいい」という確信が持てず、常に不安を感じながら行動します。第二に、物事を最初から最後までやり遂げることが困難です。目標を達成するまでの過程で挫折したり、完成間近で放棄してしまったりすることがあります。第三に、本当のことを言ったほうが楽なときでも嘘をつくことがあります。これは自分を守ってくれる愛を知らないので自己防衛が習慣として身についたものです。第四に、情け容赦なく自分に批判を下します。自己評価が厳しく、些細な失敗でも自分を激しく責めてしまいます。第五に、楽しむことがなかなかできません。幼少期に愛によって守られて自由に遊ぶ経験が乏しかったため、大人になっても純粋に楽しむことに罪悪感を覚えることがあります。第六に、まじめすぎる傾向があります。常に緊張感を持って生活し、リラックスすることが苦手です。第七に、親密な関係を持つことが大変難しいと感じます。他者と深い関係を築くことへの恐れや、裏切られることへの不安が強く存在します。第八に、自分にコントロールできないと思われる変化に過剰に反応します。予期しない出来事に対して強い不安や恐怖を感じやすくなります。第九に、他人からの肯定や受け入れを常に求めます。自分は神から無条件に愛されているという自己肯定感が低いため、いつも外部からの承認によって自分の価値を確認しようとします。第十に、自分は他人とは違うといつも感じています。どこにいても居場所がないような疎外感を抱えています。第十一に、過剰な責任を取るか、まったく責任を取らないかの両極端になりがちです。バランスの取れた責任の取り方が困難です。第十二に、忠誠心が強く、そうすべきでない場合でも固執してしまいます。不健全な関係であっても離れられないことがあります。第十三に、衝動的で、他の選択肢や結果を考慮せずに行動してしまうことがあります。
これらすべては、神の愛を知らないという罪の結果です。これを自分で治療することはできません。先ほどのヨハネ第一の手紙4章10節にこう書かれています。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」また、有名な個所ですが、ヨハネの福音書3章16節にも同じ内容が書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」罪びとの身代わりとしてのイエス様の洗礼、そして罪びとの身代わりとしてのイエス様の十字架、これは神の愛と救いを与える天国行の無料チケットだったのですね。わたしたちが代価を払う必要はありません。わたしたちが、聖書の教えを信じるだけで無条件に与えられる救いの約束です。それを信じるときに、洗礼の時のイエス様と同じように、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神のお告げを聞くことができるでしょう。そして、これからは、どんなことがあっても無条件に神に愛され、天国行の無料チケットを所有している人間として、自分自身も人々を愛することのできる人間として成長し、残された人生を、死を恐れず、人の批判を恐れず、傲慢にならず、謙虚に、元気に、感謝してすごしていきましょう。