菊川教会5月11日説教
福音書日課:ヨハネ10:22-30
説教題「神とキリストの一致の信仰」
特別の祈り
父なる神様、どうかこの世の闇の中にあなたの真理の光を輝かせ、わたしたちを正しい信仰に導いてください。そして、キリストの体なる教会に集う一人一人が、誤った人間的考えに陥らないように助けて下さい。父と子と聖霊のみ名によってお祈りいたします。
讃美歌21
7番、325番、326番、81番、88番
今日の説教は、神様とイエス・キリストの同一性の問題です。違う言葉でいえば、神様と救い主の同一性の問題です。でも、そんなことが、わたしたちの生活に何か影響するのでしょうか。ほとんどの人は知らないですが、神様と救い主の同一性の問題は二千年位前の初代教会の時代からたくさん議論されてきました。
その頃に出てきた議論は3つの形です。第一の意見は、イエス様は優しい人で神について教えたが、人間だったということです。第二の意見は、イエス様は神であった。だから、十字架にかけられても痛くなかったし、死んだように見えただけで本当は死んでなかった。これら、二つの意見は、異端として退けられました。正しい教え、これはオーソドックス神学と言いますが、現在まで受け継がれている教えは、イエス様は、本当に人間だったし、本当に神だったという考え方です。
この教えが、本当に役に立つかというと、実は、この教えを理解しない限り、自分の救いは確定せず、いつも迷った心の状態になってしまうのです。洗礼を受けた人がいても、それは、神の国の入り口から入っただけで、イエス様が本当に人間だったし、本当に神だったという考え方をしっかり持たないと、救い主がいないわけですから、普段は問題ないのですが、人生の嵐にあったら、吹き飛ばされてしまいます。また、普段の生活でも、あまり感謝がなかったり、幸福感がないでしょう。それは、神である救い主のいない生活だからです。
その逆に、救い主がたくさんいる生活も困ったものです。東京の巣鴨にはとげぬき地蔵があります。頭の病気なら頭をなでる、おなかの病気ならおなかをなでるというように、区分されています。中には、家族に長患いで迷惑をかけないようにという目的の、ぽっくり地蔵などもある。神様の名前だって、帝釈天、対日如来、梵天、阿弥陀如来、など数えられないほどある。日本ではこれを八百万の神と書いて(やおろずの神)と読ませます。それが、日本だけの問題だと思ったらキリスト教にもあるんですね。つい最近、アメリカ人ではじめてローマ法王になったロバート・プレボスという人がコンクラーベで新法王に選出されましたね。彼の新しい名前は、ルイ14世、ではなくてレオ14世。そして、彼がバチカンに集まった大群衆の前で就任のスピーチをした様子がユーチューブで出ていて、その言葉に英語の字幕がついていたのです。それを見て驚きました。まさに八百万の神と同じことを言っていたのです。彼は聖母マリアは神であると言っていました。神の子イエス・キリストを奇跡的に生んだ母親だから、マリアもア派なのだという議論は、初代教会でもあって、テオトコス論、つまり、神の母論と呼ばれたのです。これは、どちらかというと異端ですね。何故なら、聖書では、イエス様の母のマリアが神だったとは書かれていません。それに、マリアさんは奇跡もおこなっていません。伝道もしていません。苦しんでいた人を助けてもいません。十字架にかけられて死んでから復活したとも書かれていません。ただ、カトリック教会では、誰でも偉い人は聖人にして、祈りの対象にしてきたのです。これは、日本の八百万の神と同じで、苦しんでいる人の慰めにはなります。とげぬき地蔵と同じです。でも、いくら地蔵さんの頭をなでても脳梗塞はなおりません。本当の神ではないから、癒しの力がないのです。
最後に、今日の聖書日課であるヨハネの福音書を見てみましょう。ここでイエス様は疑い深いユダヤ人たちになんといっていますか。「わたしは彼らに永遠の命を与える」(10章28節)とも言っています。また、「わたしと父とは一つである」(10章30節)と言っています。これは、父なる神とその子でる自分は同質である、という意味です。カエルの子はカエル、神の子は神だということです。ここに、オーソドックスの正統派神学の頂点である、イエスキリストという救い主は、真実の人であり、真実の神であるということが描かれているのです。
それを、信じるのも、信じないのも自由です。イエス様を信じなかった人々は、イエス様を十字架にかけて殺しました。わたしたちも、信じないときには、救い主を十字架にかけて殺してしまうわけですから、救いはありません。しかし、イエス様が本当の人間であり本当神であるときにミラクルが起こります。その奇跡、ミラクルとは、「わたしは彼らに永遠の命を与える」という言葉が実現するのです。永遠の命の反対の言葉は死です。聖書には、死とは罪の結果であるとも書いてあります。人間は罪やその結果である死に支配されているから、自分が願っていることができないのです。ダイエットすらできない。数十万円出して、ライザップにいっても、リバウンドしてもとに戻る人もいます。タバコや酒ですらやめられません。有名な福沢諭吉も書いています。断酒したら口寂しかったので、タバコを始めた。タバコを吸ったら飲みたくなったので、酒に戻ってしまった。前は、酒だけだったのに、今は、酒もタバコもやめられない。自分は、なんと意志の弱い人間なのだろう。彼のような有名な人でもできないことはあるのです。しかし、イエス様の言葉を信じた弟子たちは、それまでできなかったことができるようになりました。皆さんも、イエス様が真実の人であり、真実の神であるということをしっかり信じるならば、きっと、不可能が可能になるという体験をするでしょう。それが、なんとなくクリスチャンになっているというのではなく、本当に試練を超えて伝道することができる、弟子となることなのです。それが今日の特別の祈りにあるように、「わたしたちを正しい信仰に導いてください」という意味なのです。
最後になりますが、わたしの愛読書の一つで、アメリカのハンナ・スミスという女性が書いた「幸せなクリスチャン生活の秘訣」という本があります。ここにあるのは英語の原作です。そこにこう書いてあります。私たちが誘惑や試練にあった時に、大切なのは、「自分はゼロであり無に等しく、イエス・キリストがすべてである」と信じることだ。そして、すべての思い煩いを救い主の手に引き渡し、そこに残し続けることだ。ちょっと、状況がよくなったから、また、自分で解決しようとは絶対に思わないことだ、と教えています。皆さんも、ぜひ、この方法を試してみてください。きっと、どんな試練や誘惑があっても幸せに暮らしていけるでしょう。大切なのは、八百万の神みたいに、たくさんの神ではなく、聖母マリアや聖人信仰でもないのです。それは唯一の神、「わたしは彼らに永遠の命を与える、わたしと父とは一つである」というイエス様の言葉を信じる信仰だけなのです。 アーメン