今週の説教

2月1日菊川ルーテル教会伝道説教

2月1日菊川教会説教題「試練の中の祝福」
福音書日課マタイ5:1-12
特別の祈り
天の父なる神様、あなたは私たちが試練に耐えられないことをご存知です。どうか、み言葉によって私たちを強め、罪の力に屈することなく、あなたに信頼し礼拝する勇気をお与えください。父と子と聖霊のみ名によってお祈りいたします。アーメン
賛美歌21
197番、97番、404番、81番、88番
今日の福音書の個所は、山上の垂訓とよばれる有名な個所ですね。わたしがイスラエルに留学していた時に、イエス様が弟子たちや群衆に語った山上の垂訓の場所に行ったことがあります。そこは、美しいなだらかな坂道の草原で、遥か下の方にガリラヤ湖が見えます。イエス様は、人々に語るときに、場所を考えていますね。ガリラヤ湖に浮かべた舟から、岸に集まった群衆に語ったこともあります。この山上の垂訓の場合には、イエス様が先に坂を上って座り、そこに群衆が集まってきたのですから、イエス様は人々を見下ろす形で語られたわけです。そして、この垂訓の内容をみると、すべての表現の最後に「幸いである」という祝福の宣言がついています。
そこで、今日は、聖書の伝統の中での「祝福の意味」を考えてみたいと思います。次に、私たちの生活にどのような祝福があるのかを考えてみましょう。最後に、わたしたちが祝福をどのように伝えていくことができるかを考えてみましょう。つまり、祝福の意味、祝福の所在する場所、祝福の伝達の3点です。
第一に、祝福の意味についてお話ししたいと思います。教会に来たことがある人は祝福という言葉を聞いていると思います。これは、礼拝の最後に行われる挨拶のように思われています。聖書の言葉であるヘブライ語で、「祝福」は「バルク」といいます。このバルクの語源は膝を曲げるであって、膝を床につけて礼拝することです。昔は、跪いたり前に伏したりするのが、礼拝の姿でした。ですから、古い教会に行くと、座席の前に、跪くための台がありました。今は、少ないと思います。その意味では、本来の意味の礼拝はできていないということになるかもしれません。

さて、この膝まずきの用例は聖書にあります。東方の博士たちが幼子イエス・キリストの前でひれ伏したこと(マタイの福音書2:11)。ペテロのまえでひれ伏した信徒がいて、ペトロは「わたしはただの人間です」と言ったこと(使徒言行録10:26)。罪をさとった人間がひれ伏して神を礼拝するとパウロが言ったこと(第一コリント14:25)。神の玉座の前で長老たちがひれ伏したこと(黙示録4:10)、などです。創世記の中の記事では、アブラハムが神のお告げを聞いて「顔の上に落ちた」という意味のヘブライ語が、「ひれ伏して礼拝した」という意味に翻訳されています(創世記17:3)。すごいですね。膝を地面につけるどころではなく、顔を泥だらけにして地面につけて礼拝したわけです。この礼拝に関しては、「人は上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)とも書かれています。神を礼拝することの逆については、マタイの福音書4:1-11のイエス様の誘惑の話の中に描写されています。サタンは言いました、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これらすべてをあげよう」。わたしたちの生活の中での権威と言えば、社会では権威ある社長だが、家では奥さんが最高権威者であるという例もあります。水戸黄門では葵の御紋の入った印籠が権威の象徴でした。江戸時代の侍は、断面が葵の御紋の象徴と似たキュウリを食べてはいけないという規則もあったようです。
ただし、権威にひれ伏してばかりいると、自分の頭で考えていく習慣がなくなり、国家に利用されたりする場合もあるようです。ローマ人は人権を大切にしていたので、東方の宗教が権威の前に屈服するのを嫌ったようです。しかし、現代でもアメリカの福音派というキリスト教原理主義者が、トランプ大統領に盲目的に従っています。聖書の教えによれば、それは、「この世の権威」です。しかし、「炎のランナー」という昔の映画では、パリ・オリンピックで起こった本当の出来事を題材にしています。イギリスのエリック・リデルという100メートル走者がいました。彼は敬虔なキリスト教徒で、日曜日には礼拝があるので、その日に行われた予選に出ることを拒否しました。勿論、予選に出なければ決勝戦にもでられません。彼は優勝候補だったので、イギリス国内の失望は大きなものでした。国家の名誉がかかっていたので、エリック・リデルはイキリス王室からも非難されました。この時、リデルは、「自分はこの世の権威ではなく、天の権威に従う」と主張し、専門外の400メートル競技に出場し、奇跡的に金メダルを獲得したのです。ここには、本当に大切なもの、本当に感謝すべき方はだれかという問題が示されていると思います。

次に、祝福の所在する場所についてお話ししましょう。こんな例話があります。昔、アフリカの田舎でコレラが流行して、多くの犠牲者が出ました。これを気の毒に思った宣教師が帰国前に、瓶に入った特効薬を村人にあげて、飲み方などを説明して国に帰りました。何年かして同じ村に宣教師が行ってみると、コレラもおさまって村人たちは元気になっていました。しかし、宣教師はあるものを見て驚きました。なんと、あの薬を入れてあった空のビンが神社のご神体として飾られ、その前で村人たちが礼拝していたのです。宣教師は、彼らにどうしてですかと質問しました。村人たちは言いました、「だって、あの薬のおかげでなおりましたから」。宣教師は答えました、「それなら、薬のビンを拝むよりもわたしに一言お礼をいて下さったらうれしいですね」。これも、間違った感謝の方向、間違った祝福の場所でしょう。
これに関係することですが、ネット上の動画で、106歳のアメリカの老人が感謝について語っていました。その人はイタリアからアメリカに5歳の時に移民して、いろいろ苦労はあったようです。しかし、信仰心の深かったお母さんが死ぬ前に話してくれた言葉を忘れなかったそうです。それは、「人生の出来事は、正しい見方をすれば、すべて美しい出来事に見える」という言葉でした。それも、祝福の場所を示していると思います。祝福というのは、苦しいことや、試練がないことではありません。ラッキーな人生ではなく、人生の困難も、信仰的な感謝の視点から見る事なのです。
最後に、祝福の伝達についてお話しましょう。祝福は、祝福を受けるだけでは終わりません。伝わるものです。波のようなものですね。波動です。電波も波動ですし、津波も波動です。これは、遠くまで伝わります。大谷選手の投球や打球もすごく早いですが、波動ではないので、だんだん速度は落ちていきます。波動は、感動のようなものであるとも、言えます。自分の罪が贖われ、生かされていることについての、神様への感謝は波のように伝わっていくのです。そして、心から身を低くして、跪いて、顔を地面にこすりつけてまで礼拝したい気持ちが起きるときに、祝福を自分も受け、人にも与えたい気持ちになるのです。それが礼拝するときである今です。そして、それはどんな試練の中でも消える事のない、礼拝の気持ちであり、バルク(祝福)を受ける大切な時です。
先ほど話した106歳の老人も5歳で母親を亡くし、まったく英語ができないのに父親とイタリアからアメリカに移民し、10歳で指から血がでるまで仕事し。結婚した美しい女性は、屋根の上で洗濯物を干しているときに脳腫瘍の発作で意識を失い地面に落ちて亡くなり。自分は、二人の乳飲み子を残され、途方に暮れたそうです。それでも頑張ってお店を持ったのですが、ある晩の火事で焼け落ちてしまいました。困っていた自分を助けてくれた再婚した奥さんにも死なれました。試練の連続でした。でも、彼は試練があっても祝福があることを忘れませんでした。彼の話によれば、それは、偶然の幸運を待つことではないのです。正しい信仰の見方で人生の祝福を自分で見つける事なのです。からは言います。祝福は毎日あります。朝の光、一杯のコーヒー、友達との会話、町でかわす笑顔、幸福は待ってて来るものではなく、今選びとるものなのです。このポジティブな選択こそ信仰心なのです。神とは善であり、GOODでありGODなのです。ですから、信仰とは、試練の中でも神の愛、神の光、神の与える永遠の命を信じることなのです。アフリカの村の人たちのように、間違ったものに感謝してはいけません。どんな試練があっても、すべてを良いものとして変えて下さる、神の祝福に目覚め、感謝の人生を送っていきましょう。

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