3月1日掛川(菊川)ルーテル教会伝道説教
今回から礼拝の場所は、菊川から電車で6分の掛川駅近くの掛川ルーテル教会(掛川市喜町3-4)で行われることになりました。近隣の方や東海道沿線の方がおられましたら、教派や宗教にかかわりなく、ご自由に礼拝に参加できます。礼拝は午前10時半からです。よろしくお願いいたします。中川
3月1日 掛川教会説教題「神はあなたを愛しておられる」
福音書日課ヨハネ3:1-17
特別の祈り
天の父なる神様、あなたは常に憐みをもって私たちを見守ってくださいます。あなたの愛を忘れた者にも、どうか、再度信仰を与え、み言葉をかたく信じることができるように導いてください。主イエス・キリストの恵みと、神の愛、聖霊の交わりとが、豊かにありますように、お祈りいたします。アーメン
賛美歌21
298番、484番、579番、81番、88番
今日の聖書のテーマは愛についてです。わたしたちの感覚では、愛と言えば、恋愛とか兄弟愛とかペットへの愛とかを考えるかもしれません。しかし、聖書の語る愛、特にイエス様が教えた愛というのは特別なのですね。これをしっかり学ぶならば、人生がきっとさらに豊かになると思います。
前にも、話したことがありますが、仏教では愛という言葉は禁句でした。愛という言葉が肯定的に使われるようになったのは、キリスト教の影響です。では、何故、愛が良くない言葉だったのでしょうか。それは、愛が、愛着であり、執着であるからです。愛すれば愛するほど、その対象が人間でなくて財産や地位であっても、それを失ったときに、心がボロボロになってしまうのですね。ですから、仏教では、諸行無常、変わったりなくなったりしないものはないのだから、執着を捨てなさい、愛を捨てなさいと教えたのです。それは、確かに意味あることですね。
オリンピックなどはどうでしょうか。オリンピック期間中は、テレビ放送が深夜なので、だいぶ寝不足になりました。試合を見て思うのですが、自分が金メダルをとれると思っていた選手は、金メダルに執着していますから、銅メダルだと残念そうな顔をしていますね。わたしたち、普通の人間からすると、オリンピックに出場したり、野球なら甲子園にいけただけでうれしいことですけれどね。執着である愛は仏教によれば人間を不幸せにする原因なのです。
イエス様は仏教徒ではありませんでした。仏教はインドで生まれましたが、イエス様が生まれたのはイスラエルのベツレヘムという町です。ユダヤ教徒だったイエス様は、ユダヤ教の教える神を信じていました。ただ、その頃のユダヤ教は神殿の宗教であり、神様の教えは律法が中心でした。律法というのは規則や法律のようなもので、毎日の生活にはいろいろな規則があり、これを破ると神様から罰を受けるという教えでした。ですが、イエス様は権威主義的な神殿中心の宗教、律法中心の宗教は信じていませんでした。イエス様は、聖書自体が預言者たちを通して教える神の愛の宗教を信じていたのです。それは、仏教の禁じた愛とは別のものでした。
仏教の愛は執着でしたが、聖書の教えの愛は、日本語で言えば神様が私たちに与えて下さる「絆」です。英語で宗教をレリジョンといいますが、これも元々は関係とか絆という意味です。そういえば、人間は絆で生かされているのではないでしょうか。親子の絆、兄弟の絆、友達との絆、社会生活の絆、この絆が愛なのです。絆が切れたときの人間は、糸がきれた凧のように風に飛ばされて落下していきます。絆は大切なものです。ですから、1世紀のユダヤ教の学者が言っていることですが、神の愛、つまり神の絆を知っていると言っても、自分の周りの人との絆を持てないならば、神への愛は不完全であといえるのです。
この愛である、絆は感情ではありません。愛を感情と誤解すると、愛が憎しみに変わってしまうことがあります。ストーカーなどの愛は実は愛ではなく、自己中心的な感情ですから、相手から拒否されると殺意に変わったりするのです。それはまさに仏教が禁止する危険な愛着なのです。
一方、神の愛を教えるために、イエス様はいくつかのたとえ話を語っています。一つは、放蕩息子のたとえ話です。ルカ福音書の15章11節以下に書かれています。親から財産を分けてもらった弟は外国へ行って放蕩生活をして、財産を使い尽くし、最後には食べるものもなくなって、親元に帰ってきました。父親は、息子の帰りをいつも待っていたようで、ボロボロになって帰ってきた息子がまだ遠くに見えただけなのに、喜んで走り寄り、抱擁し、歓迎したのです。そして、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言って盛大なお祝いをしたのです。これは、神の愛に背を向けて、自分の命を浪費し、滅び去る寸前だった人間が神に帰った時に示される神の愛を示しています。もう一つの神の愛の譬え話も、ルカ福音書に残されています。ルカ福音書10章25節以下に書かれている「善いサマリア人」のたとえ話です。ある人がエルサレムからエリコへ行く途中で強盗に襲われ、瀕死の重傷を負って道路際に横たわっていました。それは、街道筋だったので、神殿の祭祀や神殿の仕事をするレビ人が通りかかりましたが、無視していきました。彼らは聖書の教えは知っていましたが、きっと律法の方だけ知っていたのでしょう。律法には、不浄の者には触れてはいけないとか書いてあるからです。傷だらけで血まみれの旅人は不浄の者とみえたのでしょう。ところが、ユダヤ人からは軽蔑されていたサマリア人がそこを通りかかり、大怪我をした旅人を哀れに思い、傷の手当をしてあげ、自分のロバに乗せてエリコまで運び、宿屋に連れて行って介抱し、次の日に出発するときにはけがをした人のために世話するお金を宿屋の主人に払っていったというのです。
この二つの例話に共通するのは何でしょうか。それは、神の愛であり絆なのです。今日の福音書の日課は有名な個所ですか、それは、御子イエス・キリストの命を犠牲にしてでも、私たちを救おうとしている神の愛、つまり、神の絆を示しています。
神の愛と言えば、今から53年ぐらい前の11月8日に、私は電車の中でアメリカ人宣教師に偶然出会いました。その頃、自分は英語を勉強していたので、外人を見かけると話しかけていました。ちょうど降りる駅が一緒だったので、道案内をして、途中の喫茶店でお茶を飲みながら英語で話しました。すると、その若い宣教師は、喫茶店のナプキンに「神は愛である」と英語で書いたのです。そして、東京の本郷というところにあるルーテル教会を紹介してくれました。それまで、自分はキリスト教というのは厳しい律法的な宗教規則のかたまりだと思っていましたが、神は愛であるという教えが、うれしい発見でした。その時の自分は孤独だったのですね。それから、すでに50年以上たちますが、神は愛であること、また、神は私たちが罪の影響で滅びないようにいつも絆を保ってくれていることを実感しています。ですから、福沢諭吉は「学問のススメ」を書きましたが、わたしは「神の愛のススメ」を伝えたいです。
最後になりましたが、最近、若くして亡くなった村山聖(さとし)という将棋士について書かれた「聖の青春」という本を読みました。その本には、ネフローゼという腎臓の病気を持ち、身体が弱くてどのくらい生きていけるかわからない中学生を弟子にして、どうにかプロの将棋士に育てたいと思った森信雄四段の涙ぐましい努力が書かれています。村山聖は広島の出身ですが、広島ではもう将棋を学ぶべき相手がいなかったので大阪の森信雄四段を紹介してもらい、彼のアパートに下宿してそこから中学校に通ったのです。アパートと言っても三畳と四畳半の二間でした。病気持ちの中学生の30歳代の貧しい将棋士の奇妙な生活でした。
本の題は「聖の青春」ですが、村山聖と森信雄という若い師匠と弟子の聖の青春ともいえるでしょう。中学校が遠くで病気持ちの聖にはきついと言えば、夜遅くまで公園で自転車の練習を手伝ってやったり、熱が出て聖書40度で死にますと言っても、看病する森は39度だよと噓を言って慰めました。また、聖の両親も子供の最後を豊かにしたいと思って、好きな将棋の本を遠くまで探しに行ったり、自動車で聖君を将棋の試合会場に連れてって、試合が終わるまで長い間じっと待っていたりする犠牲を惜しみませんでした。
こうした、親子愛や師弟愛にみられるのは、まさに絆です。温かい愛の絆です。残念ながら村上聖は目標だった将棋の名人の位は達成できず、29歳で亡くなりました。しかし、彼が残したものは大きかったと思います。彼の短くも燃えつくした人生は小説にもなりましたし、映画にもなりました。また、大切なことは、村山聖は少年時代の大半を病院の小児病棟で過ごし、次々と消え去る子供たちの姿を目撃したことです。すべての絆が消える死を実感していたのですね。そんな彼の唯一の楽しみは、将棋をさすことでした。そして、彼は20歳の誕生日を迎えたときに、自分がこれまで生きらるとは思わなかったと言って喜んだそうです。彼の人生は短かった。しかし、彼には神様が彼に与えた、素晴らしい親子愛、師弟愛があったと思います。
わたしたちも実は、愛の絆で結ばれています。しかし、この愛の絆は、痛みを自覚することなしには発見できないのです。何故だと思いますか。それは普通の時は私たちの心の目を曇らせている様々な事柄が邪魔になって、絆が見えないからです。その意味では、仏教の諸行無常は、役に立つ概念です。なぜならば、すべてが消えてしまい空しくなってしまうのは、人生の真理だからです。
村山聖の実話である「聖の青春」を書いた大崎善生も吉川英治文学新人賞をとった優秀な作家でしたが60代で亡くなりました。でも、彼らは、師弟愛や家族愛を通して、人生でもっとも大切な、愛を知り、愛を伝えていると思います。わたしも、神の愛を知り、説教を通して神の愛を伝えているわけです。村山聖やその家族、また師匠の森四段などの中にあった絆、これと同じような絆を、神様はわたしたち一人一人に与えています。神様は、こうした様々な絆をとおして「決してあなたを見放さすことがない」、これが今日の聖書のメッセージの核心です。
前にも述べましたが、この神の愛の絆は、困ったときや、苦しい時、絶望した時に見えやすいものです。諸行無常、空の空なる時。ですが、キリスト教が仏教徒は違うのは、すべてが消え去るときにも、消える事のない神の愛、神の絆があるということです。人生の最大の困難は死です。死の時には、自分を支えていると思っていた、健康や、家族、仕事、貯金、趣味、ペットなどすべてが消えてしまいます。しかし、神の愛の絆の信仰さえ持っていれば、その困難のときに、自分を待っている愛情深い父親のような愛、見知らぬ傷ついた旅人を助けたサマリア人のような愛、そうした神の愛の絆を自分の周りに見出すでしょう。これをしっかり自覚しましょう。そして、それは今であり、今日からなのです。