聖書研究

逆境にあっても動じないパウロの信仰から学ぶ

使徒言行録19章21節-40節   文責 中川俊介

パウロたちの伝道の結果として、多くの人々が信仰に入り、迷信的なものを廃棄する事件が起きました。その後、パウロは聖霊によってマケドニア州とアカイア州を通って、エルサレムに行こうと決心した21節に書いてあります。共同訳では、「聖霊によって」が訳されていませんが、誤訳といえます。そうでないと、あたかもパウロが自分で決心したように解釈されます。小さいことのようですが重要なことです。さて、そのことは、フィリピやテサロニケを通ってコリントに南下する計画を指しているように思えます。そこは以前かなり厳しい迫害を受けた場所です。特にテサロニケでは暴動に悩まされました。しかし、パウロの心にあったのは、地方の開拓伝道で生まれた教会をエルサレムの教会と結びつけることです。「ユダヤの教会との結びつきを確かなものにするため、それにはエルサレム訪問が続かなければならない。」[1] ここに真の信仰者の姿が見られます。信仰的にはエルサレムが原点でしたし、教会の相互扶助の目的もあったようです。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」(ローマ15:26)献金の意義は単に経済だけではありません。「献金は、確かにささげる者自身にとっても大きな恵みです。それは、献金によって示される誠意が、それをささげる人の霊的実を結ぶということから、大きな祝福となるという意味です。」[2] それが教会の一致ということでした。また、エルサレムを訪れたあとは、ローマに行く願いを持っていました。この願いは特別なものでした。「ここのギリシア語、デイは神聖な必然性をあらわす神学的用語である。」[3] ルカはこのデイという言葉を福音書でも決定的に重要な箇所に用いています(ルカ9:22以下参照)。この部分は、イエス様の受難の予告であり、ルカはそれが神の御旨(必然性)だったことを示しています。パウロのローマ行きも同じでしょう。そこが、神の定めたパウロの受難の場所だったことをルカは密かに示しているのです。非常に深い部分です。「福音には、世界宣教の使命があります。ただ個人の宗教、自分を救うだけの信仰では弱いのです。」[4] ある意味では、わたしたちも同じような神の必然である召命をうけているのです。そこで、神に示されたパウロの伝道計画とはいったいどんなものだったでしょうか。一つだけはっきりしていることは、パウロが人口の密集した都市を中心に伝道を進めていたことであり、その人口密集地域の頂点に立つのはローマ帝国の首都であったローマなのです。

自分がローマに行く前に、パウロは弟子であるテモテとエラストの二人を先に送り出しました。伝道には二人一組というのはイエス様の教えそのものです。「マケドニアの諸教会は、打ち続く迫害のため特にひどく圧迫を受けていたので、そのことからもパウロは、自分自身が行く前に同労者を送るようにうながされたのであろう。」[5] テモテは以前の旅行の経験があるので、マケドニア州の状況はすでに熟知していたと思われます。エラストについては詳しくは分かりませんが、「エラストはコリントにとどまりました」(第二テモテ4:20)と書いてあるので、彼は予定通りマケドニア州に行き、コリントで良い働きをしたものと思われます。パウロは二人を送り出す前に手紙を書いて、現地の人たちが二人を受け入れてくれるように準備しました。「こうして書かれたのが、コリント教会への第一の手紙なのです。」[6] こうした背景を知ると、聖書の理解も深まることでしょう。一方、パウロはまだアジア州に残ることにしました。

そうしている間に、エフェソでも騒動が起こりました。「強力な反対が起るということは、本当の伝道が進められているということでもあります。」[7] 神の真理を伝える時に、それを認めないものが反発するのです。ルカはこの状況を23節以下に詳しく説明しています。エフェソはアルテミス神殿で有名でいわば門前町のような性格をもっていました。神殿の大きさは、長さ133メートル、幅が69メートルもあったと言われます。多くの参拝客によって地場産業が栄えていたことは確かです。お土産を製作して稼いでいたものもいたことでしょう。24節にあるデメトリオも銀細工の神殿模型を売って利益を得ていたのです。「素焼きの神殿模型は発掘されたが、銀のものは見つかっていない。」[8] 職人たちも雇っていたようですから、かなり大規模な工房だったのかも知れません。このお土産は材料が銀ですから、商売には資本もいるし、社会的地位をも有する者でないと運営は難しかったことでしょう。パウロに反感を持つデメトリオは地域の同業者を集めて、パウロの活動に対する反対運動をおこしました。「ピリピの町で。パウロが占いの霊を追い出してやった女奴隷の場合も、彼女を利用して収入をはかっていた道が絶えてしまったことに、パウロ迫害の真意があったのと同様です。」[9] その発言の内容が25節以下に書かれています。彼の言いたい事をまとめると次のようになるでしょう。銀で作った神殿模型の販売は彼らの生活の糧である。信仰深い者たちがその模型を買い求め、家で拝んだり墓に入れて祀っている。しかし、パウロたちは、人間が造った神殿模型などは神ではないので、拝むのも無意味だと教えている。それもエフェソだけではなくアジア州全体なので、エフェソから神殿模型を地方に出荷する妨げにもなってきている。これでは商売は成り立たない。そして、27節からは、自分たちの利益だけでなく、アルテミス女神への信仰も影響を受けると言っています。「自分たちの仕事の利害だけでは、パウロに反対して町中を立ち上がらせることはできなかった。」[10] これは、人々の地元の神への忠誠心を刺激するような演説でした。

28節に、集まった人々の様子が描かれています。おそらく、利益の問題よりも、自分たちが誇りにしているアルテミス女神が侮辱されたと感じたのでしょう。なぜなら、神殿模型だけでなく、本当の神殿も、アルテミス神像もすべてが人間の製作した物であって、それを人々は拝んでいたにすぎなかったからです。つまり、偶像礼拝を批判するパウロのメッセージは、実に核心をついたものだったのです。反対者が出るのもいたしかたありません。真実は味方だけではなく敵もつくるのです。

この結果、町中に混乱がひろがりました。暴徒は初めに、パウロの同行者であったガイオとアリスタルコを捕えたと29節にあります。彼らはひどい暴力を受けたものと思われます。「ルカが彼等の一人から野外劇場での詳しいなりゆきを聞き取った可能性はおおきい。」[11] そして、人々は野外劇場に集まりました。ここは最大2万5千人以上集まれる円形競技場で、市民集会などが開催される施設だったようです。パウロはこれを見て、群衆のなかで自分の意見を述べようとしましたが、他の弟子たちに止められ、それに従いました。パウロはここでは弟子たちの制止を神の御心として受け止めたのでしょうか。パウロの行動パターンはいつも同じではなかったのです。わたしたちはどうでしょうか。その時々に示される神の導きに従っているでしょうか。皆で話してみましょう。

31節には、他の人々の意見も書いてあります。それによると、パウロには祭儀(皇帝崇拝)を専門とするローマの高官たちも友人としていたわけです。彼らの立場もあるので、信者だったとは書いてないのかも知れません。彼らはパウロにたいへん好意的であり、彼の身を案じて野外劇場に入らないように頼みました。また、このことによって当時のローマ政府はキリスト教に対して中立的な立場だったことがわかります。

面白いことに、野外劇場に集まった群衆は、指導者がいなかったこともあり、何のために集まったかがわからなくなりました。そのとき、アレクサンドロという男がユダヤ人グループに勧められて、前に立ち、群衆に語りかけようとしました。それは「ユダヤ人の居住地は現在の問題とは何の関係もないと明らかにしようとした」[12]、のです。ところが事態は彼らの望みどおりにはいきませんでした。34節にあるように、天地創造の神を信ずるユダヤ人たちに反感を持つ群衆は、一斉に声を合わせてアルテミス讃美のコールを始めたのです。それがなんと2時間も続いたとルカは記録しています。

おそらく、野外劇場は公衆の討議などにも用いられていたのでしょう。一種の直接民主主義です。あまりにも騒動が長引くので、ついに町の書記官が登場しました。その目的がなんであれ、不穏な集会を継続することは、反ローマの会合と誤解されてローマ軍によって鎮圧される恐れさえあります。そこで登場した書記官は、群衆を前にして、アルテミス神殿とそのご神体(隕石)の意義について35節で明言しました。そして、36節で、どんな批判もこれを人の手で造った物だとは言えないのだから、敢えて反論する必要はない、動じてはならないと命じたのです。書記官からこう言われると、群衆はわれにかえりました。さらに、37節で、この冷静な書記官は、人々が野外劇場に連行してきた者たちをみて、彼らは神殿を荒らしてもいないし、女神を冒涜もしていないと述べました。これは彼独特の弁論術だったのかもしれません。書記官はキリスト教について好意的に弁護しました。これも、神の与えた助けであったと言えるでしょう。神は、弟子たちだけでなく、一般の者をも用いて福音宣教の働きを守ってくださいます。この賢い書記官は、住民の信仰観に安心を与えた後で、それでも利害の点で不満をかかえるデメトリオたちのグループに指示を与えました。その利害問題はローマの法律に従って裁かれなければいけないというのです。38節にあるように、正式に法廷に訴状を出し、地方総督に判断を仰ぎなさいと命じました。これはまた、イエス様の裁判に関する地方総督、ポンテオ・ピラトの態度について理解する助けとなるものです。地方都市での騒動に、ローマ政府は距離をおいていたように見えます。それに、利害の衝突は、主観や感情ではなく、法廷で公平に裁かれるべきであると考えられていたわけです。現代人から見れば、当然と言えば当然ですが、理屈の通らない古代社会で法が尊重されていたという事は、キリスト教にとっても助けとなったことでしょう。

最後に、40節で、書記官はこうした非公式の集会はローマ法によれば、暴動の罪に問われる危険があると述べました。もともと人々はローマ帝国の支配に反感を持っていたことでしょうが、人が集まり暴動になれば、その批判の穂先がローマ政府に向くことは明らかです。ですから、ローマ法では無許可、無秩序な集会を、「破壊活動防止法」のような法律で取り締まっていたのでしょう。現代の中国なども、異民族支配をおこなっているので、集会や会合には強い規制を加えているようです。それはそうと、この書記官の理路整然とした発言によって、暴徒による集会は解散となりました。暴徒の力をかりて、キリスト教を排除しようとした、銀職人たちのグループやユダヤ人たちのグループの目論見はつぶされました。ここにも神の加護があった、そのようにルカ自身が整然と語っているのです。それも神の必然だと言いたいのでしょう。ですから、わたしたちも逆境に動じてはいけないのです。「パウロは、キリストの福音を宣べ伝えることによって、さまざまの苦しみに遭いました。しかし、彼はそれを救われる人々のために忍び、かつ喜んでいるのです。」[13] おそらく、そのこともルカは伝えたいのでしょう。

[1]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、251頁

[2] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、245頁

[3] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、180頁

[4] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、267頁

[5] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、251頁

[6] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、242頁

[7] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、253頁

[8] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、317頁

[9] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、255頁

[10] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、251頁

[11] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、399頁

[12] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、400頁

[13] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、259頁

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