今週の説教

8月3日菊川ルーテル教会伝道説教

8月3日菊川教会 聖霊降臨後第8主日礼拝内容
福音書日課:ルカ福音書12:13-21
説教題「命には値札がついていない」
特別の祈り
「恵み深き父なる神様、あなたは御子を天より遣わし、命のパンとしてこの世に与えて下さいました。どうか、わたしたちにもこの命の糧をお与えください。そして、主が私たちの内に、私たちが主の内に生きるようにしてください。」
讃美歌21:7番(1節、2節)、101番(1節、3節)、218番(1節、5節)、81番、88番

聖書には命について詳しく書いてあります。キリスト教は命の可能性を信じる宗教だとも言えます。そして、命は神であるとも聖書には書いてあります。
「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7:14)
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)

イエス様のところにはいろいろな人が相談に行っていました。健康問題の相談が多かったようです。しかし、中には、今日の日課のように、財産の分配問題を相談する人もいました。わたしも若いころ1年間ほど家出をしまして京都に住んでいたことがあります。生活するために、京都互助会という葬儀屋で働いていました。いわゆる「おくりびと」ですよね。それまでは家と大学を行き来していただけでしたから、社会のことはほとんどわかりませんでした。しかし、葬儀社の社員として葬儀の現場で働いていると、本当に社会のいろいろな状況が見えてきたわけです。若くして亡くなった家族を悲しむ家族もいれば、今日の聖書個所のように、ご遺体の横で、兄弟同士が財産の分配で争っている場面も見たことがあります。
そんな、社会の泥沼のなかで、イエス様はどんな判断を下されたのでしょうか。第一に、イエス様はこの世のゴタゴタの調停人にはならないと言いました。もちろん、彼らが困っていることはわかっていましたが、社会の問題とは、健康問題の解決とは違って、一方を喜ばせれば、他方は悲しむか怒るかになってしまします。裁判だって、刑事裁判は善悪で判定できますが、民事裁判では、判断が難しいと思います。ここでの財産分配問題などはまさに民事裁判の項目です。ですから、イエス様はそういう判定には参加しないと宣言しました。
それでは、イエス様は、人々が悩んだり争ったりする問題を無視したのかと言えば、そうではありません。その証拠に、イエス様は、「貪欲」が争いの原因だと指摘しています。この貪欲というのは、仏教でも十悪の一つに数えられていますね。まあ、わたしたちでも欲深い人をみると、あまり良い気持ちはしませんが、この欲というのは誰の心にも潜んでいる罪なのですね。イエス様は、単に貪欲が悪いと言ったのではなく、欲がからまる財産と命を比べています。イエス様の考えの中では、財産の反対の言葉は、貧しさや貧困ではなく、命なのです。命と財産は、ちょうど地球の南極と北極のように対極を示しているわけです。
ただし、そうはいっても、イエス様の周りにいた一般の人たちが、財産や命に関して正しく考えられたかは疑問です。だから、イエス様はたとえ話でこのことを説明しました。人々のほとんどが、財産のこと、あるいは今日食べる食料のこと、そういう物のことしか考えられないときに、イエス様は「命」という抽象的なことをわかりやすく、たとえ話で話されたのです。
それは、ある金持ちの心配事でした。これを言い換えれば、ある貧乏人の心配事に変えることもできるでしょう。結局は持っているものに関する心配事だからです。それはともかく、金持ちの心配事とは、収穫した作物の貯蔵場所の不足でした。おそらく、この作物とは小麦でしょう。わたしがイスラエルに住んでいた時に、小麦の原産地はイスラエルだと聞いたことがあります。確かに、田舎の道を歩いていると、雑草の代わりに麦が道端にはえていました。この麦で作った「マカビー」というビールは、お酒の飲めないわたしでも美味しいと思えるくらいすっきりした味でした。それに比べると、日本のビールはお米をたくさん使っているので、ドロッとした感じです。
それはともかく、こうした穀物の貯蔵所が足りなくて、お金持ちは悩んだわけです。このときのお金持ちの言葉をギリシア語原文で読むと、「私の作物」、「私の倉」「私の財産」など、自分の所有物という意識を強く出しています。これとは逆に、所有物を持たない貧乏な人の場合には、どうやって自分の食べ物を手に入れようかと悩むわけです。ただ、金持ちは、良い考えを思いつきました。今持っている穀物用の倉が小さいのだから、それを壊して大きい倉を作れば、問題は解決するということでした。しかし、人間が考えた問題解決法は、本当の意味の解決になるのでしょうか。そこで、イエス様は神様の言葉を引用します。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」つまり、お金持ちが考えた解決策は、神様の喜ぶものではなかったのです。イエス様は、聖書のほかの個所で、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)と教えています。財産より命が大切なのです。このお金持ちは、余分な穀物を、貧しい人たちの命を支えるために分け与えるべきでした。しかし、命のことを考えないで自分の財産という考えに執着したので、彼の終着駅は、自分の命を取り上げられることになってしまいました。
 命は大切なものです、それは、財産やどんな値札が付いたものより大切です。ただし、命ではなく、身体の臓器には値札をつけることが可能です。歯は一本で200万円だそうです。それは歯医者さんが間違って治療の必要のない歯を抜いてしまったときに賠償請求された金額だそうです。東南アジアの貧しい国ではお金に困って腎臓を移植用に売る人がいるそうです。その場合には、値札は375万円だそうです。先進国の歯は200万円なのに、ずいぶん安いようですが、その国の金銭感覚では多額だと思います。肝臓の価格はマンションが買えるくらいだといいますから、数千万円という値札がつくでしょう。それでは、人間全体にはどんな値段がつくでしょうか。再利用できる、血液や髪の毛、皮膚、眼球、臓器など全部で、値札をつけると4億円だそうです。わたしたちのまわりを見渡せば4億円が歩き回っているわけです。わたしはるとき、ある教会員に頼まれて700万円を現金で銀行から銀行までもち運んだことがあります。そのとき100万円の札束を始めてみましたが、厚さは1センチくらいでした。ですから、4億円というのは、一万円札を4メートルの高さに積み上げた金額です。そこで、身体を部品と考えて値札をつければ4億円です。しかし、身体自体は、命ではありません。身体は値段を付けうる物体であっても、命は神様の賜物であって、値段はつけられません。だから、その命を失ったら、全世界を手に入れても意味がないとイエス様は教えたのです。そして、聖書には、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)とも書かれています。なぜなら、値札が付かない命とは、4億円以上の価値あるものであり、それは信じる者には差別なく与えられる神様からのプレゼントだからです。そして、聖書には神は命であり光であり、愛であると教えられています。イエス様は、目の前の所有物が多いとか少ないことで悩まず、人を助けることを考え、自分に与えられる命を感謝するように教えられたのです。ただ、素直に信じればいいことなのですが、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7:14)とも書かれています。この命の門が開いているうちに、永遠の命に到達するのは、今であり今日です
最後に申し上げますが、金持ちが、私の倉とか、私の穀物、私の財産と言いましたね。このような倉は、普通の人間にはないのですが、わたしたちも同様に、「自分のなんとか、かんとか」というものをたくさん持っているはずです。それは、私の家族や、私の名誉、私の仕事、あるいは私の健康だったりします。そのことで心配したり、安心したりしている姿は金持ちと同じではないでしょうか。それに気付かないならば、神様から「愚かな者よ、あなたの命は取り上げられる」と言われてしまうのです。それよりも、今すでに、与えられている貴い命、値段がつけられないほどの貴重なこの命に感謝して、この命のあるうちに自分の持っているものが、実は、神様から預けられているものだと知って、他の人を喜ばせるために使ったらどうでしょうか。そこには愛がありますね。愛があるところに光があり、命があります。そこに神がいます。神は愛だからです。
今日から信じましょう。身体の値段である4億円、これ以上の価値ある「命そのもの」を神様が与えて下さっていることを信じましょう。今後は、「どうしようか困った、あれが足りない、これが足りない」という考えを捨てて、自分には豊かな人生のすべてが与えられていることを信じて、積極的に生きましょう。感謝の毎日を送りましょう。周りの人を助けていきましょう。アーメン

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