今週の説教

7月6日菊川ルーテル教会伝道説教

7月6日 菊川教会礼拝内容
福音書個所 ルカ10;1-11、16-20
説教題「あなたは自分の目の前の収穫にまだ気づいていない」
特別の祈り
私たちを愛してくださる父なる神様、人生に平安を与えて下さるのはあなたしかいません。どうか、わたしたちをあなたの平和の使者として遣わしてください。そして、あなたの救いの業をこの目で確認する喜びをお与えください。父と子と聖霊の御名によってお祈りいたします。アーメン
讃美歌21 175番、405番、451番、81番、88番

今回の福音書の聖書日課の後半部分については「るうてる7月号」に良い説教が掲載されていますので、そちらも参考にしてください。今回、わたしがフォーカスしたのは、前半の部分です。ルカの福音書10章2節「収穫は多いが、働き手が少ない」という部分です。
ここで疑問になる点があります。何故、働き手が少ないのでしょうか。皆さんは、どう思いますか。働くのが面倒だからですか。賃金が安いからですか。それもあるかもしれません。しかし、一番の原因は、収穫そのものが見えていないからでしょう。収穫すれば、それを換金して、もっと楽な暮らしになるのに、あれが足りない、生活が苦しいという不平不満を言いながら暮らしている人が実に多いのです。その人に聖書が語っているのは、「あなたは自分の目の前の収穫にまだ気づいていない」ということです。
 外国のクリスチャンで農業をやっている人が収穫の実験をしたことがあるそうです、それはこういう方法です。日本では今、米騒動と言われるくらいコメ不足ですが、外国では全く問題になりません。主食はコメではなく麦だからです。この農家の人は、まず一粒の麦を植えました。勿論、次の年の収穫は、生えてきた一株分の麦です。その時に収穫した麦をまた次の年に蒔きます。すると、だんだん増えていきますよね。こうして、種をとっては蒔くことを、5年続けたら、最後には、トラック何台分もの収穫になったそうです。
 頭の回転が速い人は、この実験の意味がわかったとおもいます。ただ、わたしたちの多くは、「あなたは自分の目の前の収穫にまだ気づいていない」という場合が多いので、説明しましょう。
 収穫とは、福音であり、神の恵みのことです。これは、誰が見てもすぐにわかるようなハッキリしたものではありません。信仰の目で見なければわかりません。収穫の実験をしたクリスチャンの農夫の人は、信仰をもって将来を見越したうえで、種を蒔き続けたのです。信仰のない人は、誰かがトラック何台分もの麦をくれたら喜ぶでしょうが、麦の一粒をくれても、ポケットにいれて忘れてしまうでしょう。それがだくさんの人たちの姿です。私たち自身もそうかもしれません。信仰をもって蒔くことをしないから、いつまでも貧しいのです。長い間、教会へきて、福音の種を受け取っても、それを毎日の生活の中で、蒔いて、生かし、育てることがない人は、いつまでも貧しいままです。「あなたは自分の目の前の収穫にまだ気づいていない」ということです。
聖書にはこう書かれています。「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」(マタイ福音書25:21)ここでの、少しの物とは一粒の麦と同じですね。ここでなるほどなあ、と思っているだけではダメです。みなさんにとっての、「一粒の麦」とは一体なんであるかを見つけなければ、「あなたは自分の目の前の収穫にまだ気づいていない」ということになってしまいます。
ここで、日本昔話である「わらしべ長者」の話をウィキペディアから引用してみましょう。
「昔、ある一人の貧乏な男がいた。毎日真面目に働いても暮らしが良くならないので貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。
男はお告げ通り、その藁しべを手に持って道を進んでいった。ところが彼の顔の周りを、大きなアブが飛び回り、煩くて仕方が無い。そこで男はアブを捕まえると、藁しべの先に結び付けてやった。
すると、傍で大泣きしていた男の子がアブが結び付けられた藁しべを欲しがるので男は観音様のお告げを信じて譲ろうとしなかったが、大泣きに手を焼いていた男の子の母親が「蜜柑と交換しよう」と申し出てきたので、藁しべを男の子に譲り、代わりに蜜柑を受け取った。
さらに歩くと、喉の渇きに苦しんでいる商人がいた。彼は男が持っていた蜜柑を欲しがり、持っていた上等な反物との交換を持ちかけてきた。男は蜜柑を譲り、反物を手に入れた。
一本の藁しべが上等な反物に代わったと喜んだ男は、旅の途中で侍に出会う。その侍は愛馬が急病で倒れてしまったが、急いでいるために馬を見捨てなければならない状況にあった。侍は家来に馬の始末を命じ、先を急ぐ。男は侍の家来に反物と馬の交換を申し出た。家来は反物を受け取り、そのまま侍の後を追っていく。男が水を汲んで馬に飲ませたところ、馬は元気を取り戻して立ち上がった。男は馬に乗り、旅を続けた。
道を進んでいくと、大きな屋敷に行き当たった。ちょうど旅に出かけようとしていた屋敷の主人は、男に屋敷の留守を頼み、代わりに馬を借りたいと申し出る。主人は3年以内に自分が帰ってこなかったら、この屋敷を譲ると男に言い出す。男は承諾し、主人は馬に乗って旅に出発した。
しかし3年待っても5年待っても主人が旅から帰ってくることは無かった。こうして男は屋敷の主人となり、裕福な暮らしを手に入れることができた。」
聖書にはこう書いてあります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24)私たちを愛してくださる神様は、わたしたち一人一人に幸せの種、福音の種を与えて下っています。それを、蒔きさえすれば、多くの実を結ぶのです。自分にとっての種は何なのか見つけましょう、そしてそれを蒔くのは今日からであり、この時なのです。そのとき、「あなたは自分の目の前の収穫にまだ気づいていない」とは言われなくなるでしょう。

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