今週の説教

10月5日菊川ルーテル教会伝道説教

10月5日菊川教会礼拝内容
説教題「弱い信仰で十分である」福音書日課ルカ17:5-10
特別の祈り
主なる神様、あなたはこの地上に現れた多くの愚かで人間的な考えを忍耐してこられました。どうか、わたしたちが、あなたを裁くものとなる過ちをお赦しください。そして、自分を捨て、神にのみ頼る信仰をお与えください。アーメン
賛美歌21
57番、451番、226番、81番、88番

今から500年ぐらい前にドイツで宗教改革がおこりました。その頃の、ローは法王は、現在のトランプ大統領のように権力をふりまわしていました。トランプ大統領は、メチャメチャな関税を輸入商品にかけています。500年前の法王は、ローマに大寺院を建設するための資金集めのために、たくさん献金したら、死んでも魂は天国に昇って救われると教えました。こうした利益優先の考えは聖書の教えにはないので、聖書学者だったルターは反対しました。でも、その頃は、ローマ法王にの教えに反対する者は火あぶりの刑でした。ルターも危なかったわけです。でも、ルターが命がけで伝えた「聖書の教え」は、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」、の三つの点でした。人間である法王の言葉を信じるのではなく、神の言葉である聖書を信じる事。そして、善い行いや献金の多さを自慢するのではなく、信じることだけで救われると信じる事。そして、持ち物は何もなくても、無から有を生み出すことのできる、神の恵みを信じる事です。
 そして、今日の聖書の日課は、2番目の教えである「信仰のみ」に関するものです。皆さんは、どうして、教会に来ていますか。ずいぶん前ですが、板橋ルーテル教会の牧師をしていたときに、若いサラリーマンに聞いたことがあります。彼は言いました、「ストレスの多い仕事を一週間続けて、教会に来ると、清涼飲料水を飲んだような爽やかな気持ちになるのです。」彼の動機は気分転換だったのですね。しかし、あるとき、彼は教会で高校生にセクハラ事件を起こしてしまいました。教会員から注意された彼にとって、教会はもはや清涼飲料水ではなく、苦い水になってしまいました。彼は全く来なくなってしまいました。彼が求めていたものは、信仰ではなく、気分転換だったからです。
 皆さんの中でも、気分転換、教会の賛美、静かなお祈り、お友達との談話などを、求めてくる場合があるでしょう。それ自体は、それほど悪いものではありません。しかし、自分の求められるものが求められなくなると、自然と来なくなるものです。日本の教会が大きくならないのは、清涼飲料水信徒が多いからではないかと思います。では、教会に来て、何を求めたらいいのか。それはm宗教改革第二原則の「信仰のみ」です。
 その意味では、今日の日課にあるように、弟子たちが「わたしたちの信仰を増やしてください」と言ったのは、あながち、間違いではないと思います。やっぱり、彼らはイエス様から、信仰の大切さを聞いていたし、イエス様が強い信仰によって奇跡を起こすのを見たので、自分たちもそうなりたいと思ったのでしょう。これは、釣りなんかも同じですね。防波堤で一列に並んで釣っているときに、ある人だけ魚をたくさん釣っていると、遠くにいた人たちもだんだんその人に近い所で釣りだすのです。そして、熱心な人は、良く釣れる人に「どんなエサで釣っているんですか」とか「どんなシカケを使っていますか。タナはどれくらいですか」と聞くことがあります。弟子たちも同じです。信仰を増やせば、きっとイエス様と同じことができるだろうと思っていたのでしょう。
彼らの願いに対して、イエス様は、「じゃあ、信仰の増やし方を教えよう」とは言いませんでした。「カラシ種一粒のような信仰で十分だよ」と言われたのです。これは、カラシ種を見たことがない人にはわかりません。わたしは、イスラエルで見たことがあります。それはゴマの種の十分の一より小さいものです。針の先くらいに細いものです。まさに点ですね。イエス様は、このくらい小さい信仰で十分だよと、諭されたのです。
 大きい信仰を求めていた弟子たちは、少しガッカリしたと思います。誰でも、自分の期待が満たされないようなときに、清涼飲料水信徒になりがちです。「な~んだ、大きい信仰を授けてくれると思ったら、目に見えないような小さい信仰で十分だっていわれたぞ。」「期待外れだね~」なんて考えたでしょう。彼らはイエス様の言葉が理解できなかったでしょう。だから、イエス様はそのカラシ種の信仰を説明しています。みなさんも、せっかく教会に来ているのだから、カラシ種の信仰を理解した方がよくないですか。
 ところで、少し違う話をしましょう。世の中には多くの宗教があります。そして、すべての宗教は強い信仰の重要性を説いています。武田信玄の菩提寺である山梨県の恵林寺には、織田信長軍に寺が焼き討ちされたとき「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」ととなえて死んでいった快川和尚の石碑が残されています。すごい信仰ですね。火あぶりの刑になったジャンヌダルクはこう言っています。「私はまったく怖くない。これをするために生まれてきたのだから」あのオーム真理教の麻原彰晃ですら、信仰があれば息をしないで水の中に長い時間浸かっていることができる、と言っています。どんな宗教であれ、信仰は一種の自己暗示であり執念ですから、無理なこともできてしまう可能性はあります。一言でいえば、信念の強さですね。信仰という言葉は使わなくても、大事業を起こしたりする人の信念はスゴイです。大分県の耶馬渓にある青の洞門も同じですね。これは私も見たことがあります。地元の人たちが危険な岩山を越えなくてもいいように、禅海和尚さんがノミとタガネで30年かけて342メートルのトンネルを掘ったのです。これも、不可能を可能にする信仰の業です。
 けれども、イエス様が教えた信仰は違いました。教会に来ているからには、この信仰を学びましょう。イエス様の教えた信仰は無敵な信仰や、鉄壁の信仰ではなく、小さく、弱く、あるかないかわからないような信仰です。これで十分なのです。そして、それは、自分が特殊な能力を発揮するのではありません。主人に仕える僕のような、従順な信仰です。「取るに足らない僕」の信仰です。なぜなら、自分の力を信じない者だけが、奇跡を起こされるのは、私たちを愛してくださる神だと知っているからです。イエス様の教えた信仰は、清涼飲料水ではありません。超能力を発揮する強い信念でもありません。弱い信仰です。カラシ種の信仰です。そして、自分の弱さを知っているからこそ、唯一の助け主である神様を信じているのです。その信仰こそが、純粋な信仰です。そして、純粋な信仰があるときに、その信仰の対象である神様が奇跡を起こしてくださるのです。
私の好きな讃美歌に「弱き者よわれにすべて、まかせよやと主はのたもう」(日本基督教団讃美歌514番)という曲があります。この歌詞がいいですね。これは、エヴィナ・ホールというアメリカの女性作詞家が礼拝の説教を聞きながらメモした原稿がもとになったと言われています。原語である英語の文章が素晴らしくて、150年近く愛唱されている曲だそうです。その歌詞には「岩のごとく、固き心、砕くものは御力のみ。われになにの、いさおしあらん。ただ主の血に清くせらる。主によりて贖わる、わが身の幸は、みな主にあり。」
これこそ、イエス様が弟子たちに教えた、私たちを本当に救う、弱さの中で主に仕える信仰ではないでしょうか。

-今週の説教