9月7日菊川ルーテル教会伝道説教
説教題「信仰の計算式」福音書日課:ルカ14:25-33
特別の祈り
全能の父なる神様、あなたは私たちの問題や弱さをことごとくご存知です。どうか、あなたの愛と力によって、わたしたちが弱さに負けるのではなく、信仰に立つことができるように助けて下さい。父と子と聖霊の御名によってお祈りいたします。アーメン
讃美歌21
7番、449番、458番、81番、88番
イエス様は深い信仰を持っていました。しかし、学者ではありませんでした。聖書には、大工さんだったと書いてあります。ただし、イスラエルの大工さんは日本の大工さんと違います。石で建物を作る大工さんだからです。石を組み立てるには、ち密な計算が必要です。いかげんにやったら、材料が重いですから崩れてしまいます。ですから、イエス様は計算が上手だったと思います。
不思議なことに、信仰に関しても、イエス様は計算を例にだして教えています。それのほうが、神学を話すより、一般の人に理解しやすかったからでしょう。第一の計算は、弟子となることです。それは、計算でいえば、足し算です。自分の人生に何かを加えることです。新しい趣味、新しい仕事、新しい友達、など、わたしたちの生活ではいろいろなものを加えています。足し算は、誰でも得意だと思います。しかし、イエス様は、足し算の時には、引き算も大切だと教えました。つまり、弟子となろうとする足し算をするときは、自分の家族に対する執着を引き算しなくてはならない、と言ったのです。この例に似た引き算では、自分が大切にしている財産だとかに対する執着を、引き算しなくては、天国に入れないとも教えています。
わたしたちは、何かを手に入れることばかりを考えやすいものです。一つの例が、ストーカーです。相手が嫌がっているのに愛がほしいわけです。ロシアもすでに大きな国なのに、まだ、ウクライナの領土がほしいわけです。
イエス様は、得ることばかりではなく、捨てること、つまり引き算の人生観を教えています。これは、仏教でもあります。断捨離という言葉です。何かを断って、捨てて、離れるという引き算です。別段、仏教の教えを引用しなくても、生き物は生きていくために引き算をしています。例えば、わたしたちの体は、常に新しい細胞と入れ変わっています。皮膚も28日で古いものが引き算されて、新しくなっているそうです。骨の入れ替わりは2年から3年だそうです。ですから、今の自分は、5年前の自分ではないのです。このように、生命体は引き算していかないと、病気になったら死んでしまいます。それなのに、わたしたちの考えでは、なかなか、断捨離がむずかしく、昔のことにこだわってしまうのです。ですから、イエス様の教えによれば、イエス様の弟子とは、昔のことや、誰でもが大切にしている家族や財産にこだわらない人のことです。
次に、イエス様は、塔を建てる計画について話します。イエス様は石で建物を作る大工さんでしたから、塔を作ったこともあるでしょう。その時にも、計算が必要です。それは、塔を建てる場所の土地代の計算、材料費の計算、人件費の計算、またお金を借りて作るなら、払わなければならない利子の計算などです。それを計算しないで、工事を開始しても、完成できないという例話です。これは、誰でも納得したと思います。ですから、イエス様の弟子となって神に従うなら、塔を作るという足し算の前に、そのための費用という引き算を考えなさいということです。戦争の例も同じです。1万人の軍勢で、2万人の軍勢に勝てるかどうか、計算してから開戦死なないということです。これに失敗したのが、80年前の太平洋戦争ですね。アメリカの産業や国力を視察して知っていた山本五十六は、真珠湾攻撃を行っても、早期に戦いを終わらせなくては負けるということを知っていたのです。でも、あれも欲しい、これも欲しいという、欲に負けて、捨てることができなかった日本軍はすべてを失ったのです。
最後に、イエス様は、自分の財産を全部捨てるという引き算をしない人は、イエス様の弟子になれない、つまり、神の子になれないと結論したのです。
では、イエス様の教えは引き算だけでしょうか。ここが、引き算の断捨離とは違う点だと思います。同じルカ福音書の18章では、自分にとって大切なものを捨てた人は「誰でも、その何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(ルカ18:29以下)と教えています。引き算だけではないのです。わたしたちの身体だって、古いものが捨てられて新しくなるように、神以外の不必要なものを捨てることによって、神の命をこの世でも、あの世でも、豊かに受けることができると約束してくださったのです。
皆さんは、小学校で掛け算を習ったことがありますよね。2×3は6です。しかし100万×ゼロはゼロです。1億×ゼロもゼロです。信仰のない人生は、それとおなじです。今どんなにたくさん持っていても、神の与える信仰がないならば、やがてゼロになってしまいます。ですけれども、信仰が少しでもあれば、それはだんだん増えていきます。前に話した、アメリカの信仰深い農家の人の穀物実験です。一粒の麦は、普通の人は大切にしません。しかし、この農家の人は信仰の実験をしたのです。蒔いた一粒の株から収穫した種を全部、次の年に蒔きます。これを繰り返したら、5年で、大きなトラック何台分もの収穫になったということです。これが、信仰の計算式です。
イエス様も、この計算式を一言で述べています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななけらば、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)皆さんの中には、まだ、あれが足りないこれが足りないと思っている人がいると思います。人間的な足し算ばかり考えているわけです。しかし、よく考えてください。神様は、どんな人にも、例外なく、一粒の種をすでに与えています。何かが足りないと思っている人は、足し算ばかり考えている人ではないでしょうか。自分の持っている一粒を捨ててみたらそうでしょうか。引き算をしてみたらどうでしょうか。自分の小さな一粒を、人の役立つことのために与えてみたらどうでしょうか。イエス様は、また、「与える者は与えられる。あふれるほど与えられる」(ルカ6:38)と教えています。わたしたちも足し算の計算式をやめて、神への信仰を第一にした、引き算の計算式、人のために、神のために自分に与えられた一粒を蒔くことを始めましょう。きっと大きな収穫という恵みがあるでしょう。アーメン